第九巻 : 葦屋の菟原娘子の八年子の

2006年07月23日(日)更新


原文: 葦屋之 菟名負處女之 八年兒之 片生之時従 小放尓 髪多久麻弖尓 並居 家尓毛不所見 虚木綿乃 牢而座在者 見而師香跡 悒憤時之 垣廬成 人之誂時 智弩壮士 宇奈比壮士乃 廬八燎 須酒師競 相結婚 為家類時者 焼大刀乃 手頴押祢利 白檀弓 靫取負而 入水 火尓毛将入跡 立向 競時尓 吾妹子之 母尓語久 倭文手纒 賎吾之故 大夫之 荒争見者 雖生 應合有哉 宍串呂 黄泉尓将待跡 隠沼乃 下延置而 打歎 妹之去者 血沼壮士 其夜夢見 取次寸 追去祁礼婆 後有 菟原壮士伊 仰天 ■於良妣 ■地 牙喫建怒而 如己男尓 負而者不有跡 懸佩之 小劔取佩 冬■蕷都良 尋去祁礼婆 親族共 射歸集 永代尓 標将為跡 遐代尓 語将継常 處女墓 中尓造置 壮士墓 此方彼方二 造置有 故縁聞而 雖不知 新喪之如毛 哭泣鶴鴨

作者: 高橋虫麻呂(たかはしのむしまろ)歌集より

よみ: 葦屋(あしのや)の、菟原娘子(うなひをとめ)の、八年子(やとせこ)の、片生(かたお)ひの時ゆ、小放(をばな)りに、髪(かみ)たくまでに、並び居(を)る、家にも見えず、虚木綿(うつゆふ)の、隠(こも)りて居(を)れば、見てしかと、いぶせむ時の、垣(かき)ほなす、人の問(と)ふ時、
茅渟壮士(ちぬをとこ)、菟原壮士(うなひをとこ)の、伏屋(ふせや)焚(た)き、すすし競(きほ)ひ、相(あひ)よばひ、しける時は、焼太刀(やきたち)の、手(た)かみ押(お)しねり、白真弓(しらまゆみ)、靫(ゆき)取(と)り負(お)ひて、水(みづ)に入(い)り、火にも入(い)らむと、立ち向(むか)ひ、競(きほ)ひし時に、
我妹子(わぎもこ)が、母に語(かた)らく、しつたまき、いやしき我(わ)が故(ゆゑ)、ますらをの、争(あらそ)ふ見れば、生けりとも、逢(あ)ふべくあれや、ししくしろ、黄泉(よみ)に待たむと、隠(こも)り沼(ぬ)の、下(した)延(は)へ置(お)きて、うち嘆(なげ)き、妹(いも)が去(い)ぬれば、
茅渟壮士(ちぬをとこ)、その夜夢(よいめ)に見、とり続(つづ)き、追ひ行(ゆ)きければ、後(おく)れたる、菟原壮士(うなひをとこ)い、天(あめ)仰(おふ)ぎ、叫(さけ)びおらび、地(つち)を踏(ふ)み、きかみたけびて、もころ男(を)に、負(ま)けてはあらじと、懸(か)け佩(は)きの、小太刀(をだち)取り佩(は)き、ところづら、尋(と)め行(ゆ)きければ、
親族(うがら)どち、い行き集(つど)ひ、長き代(よ)に、標(しるし)にせむと、遠き代(よ)に、語り継(つ)がむと、娘子(をとめ)墓(はか)、中に造(つく)り置(お)き、壮士(をとこ)墓(はか)、このもかのもに、造(つく)り置(お)ける、
故縁(ゆゑよし)聞(き)きて、知らねども、新喪(にひも)のごとも、哭(ね)泣(な)きつるかも

意味: 葦屋(あしのや)の菟原娘子(うなひをとめ)が8歳の頃から、髪を束ねて結う年頃になるまで、立ち並ぶ家にも現れず、引きこもりなので、その姿を見たいともどかしく思って皆が、結婚して欲しいと言った時のことです。
茅渟壮士(ちぬをとこ)と菟原壮士(うなひをとこ)が小屋を焼いて争って求婚したときに、焼き鍛えた太刀の柄(つか)を持って歩き、白真弓(しらまゆみ)と靫(ゆき)を負って、水でも火でも入るぞと立ち向かって争ったとき、
菟原娘子(うなひをとめ)が母親に「たいしたことのない私などのために、男の方たちが争うのを見ていると、生きていても結婚などできそうにありません。黄泉(よみ)でお待ちします。」と告げて、嘆き悲しんで、亡くなってしまったところ、

野老(ところ) 撮影(2006.07) by きょう

茅渟壮士(ちぬをとこ)はその夜夢に見て、後を追ってしまったので、残された菟原壮士(うなひをとこ)は、天を仰いで叫んで、地を踏んで歯を噛んで、あの男に負けるかと、肩にかけた小太刀を取って、あとを追って行ってしまったので、
肉親たちは集まって、後まで長く残る記念にしようと、語り継ごうと、娘子(をとめ)の墓(はか)を造って、男の墓をその両側に造った。
いわれを聞いて、実際はどうなのかは知らないけれど、喪(も)のときのように泣いてしまったことです。

この歌の題詞には、「菟原娘子(うなひをとめ)の墓を見た時の歌一首」とあります。

菟原(うなひ)は、現在の兵庫県の芦屋から神戸にかけての地にあたるといわれています。

ところづらは、「尋(と)め行(ゆ)き」を導く枕詞として使われています。


第九巻