原文
名寸隅乃 船瀬従所見 淡路嶋 松帆乃浦尓 朝名藝尓 玉藻苅管 暮菜寸二 藻塩焼乍 海末通女 有跡者雖聞 見尓将去 餘四能無者 大夫之 情者梨荷 手弱女乃 念多和美手 俳徊 吾者衣戀流 船梶雄名三
作者
笠金村(かさのかなむら)
よみ
名寸隅(なきすみ)の、舟瀬(ふなせ)ゆ見ゆる、淡路島(あはぢしま)、松帆(まつほ)の浦に、朝なぎに、玉藻(たまも)刈りつつ、夕なぎに、藻塩(もしほ)焼きつつ、海人娘女(あまをとめ)、ありとは聞けど、見に行かむ、よしのなければ、ますらをの、心はなしに、手弱女(たわやめ)の、思ひたわみて、たもとほり、我れはぞ恋ふる、舟楫(ふなかぢ)をなみ
意味
名寸隅(なきすみ)の舟瀬(ふなせ)からみえる淡路島の松帆(まつほ)の浦に、朝凪(あさなぎ)には玉藻(たまも)を刈りとり、夕凪(ゆうなぎ)には藻塩(もしお)を焼いている海人(あまの)の乙女たちがいると聞きますが、その娘たちを見に行くすべがないので、男としての心もなく、か弱い女性のように心が折れて、おなじところを行ったりきたりしながら、私はただ恋い想っているばかりです。舟も舵(かじ)もないので。
補足
この歌の題詞には、「神亀三年(西暦726年)秋九月十五日、播磨國(はりまのくに)印南野(いなみの)に幸(いでま)す時に笠朝臣金村(かさのあそんかなむら)の作る歌一首、并(なら)びに短歌」とあります。ただし、続日本紀(しょくにほんぎ)には聖武天皇の播磨国印南野行幸は十月七日の出発となっていて、一ヶ月ほどずれています。
舟瀬(ふなせ)は、舟が風や波を避けるために泊まる場所をいいます。
玉藻(たまも)は、ホンダワラなどの海藻のことです。これから塩を採っていました。
藻塩(もしお)は、玉藻(たまも)を乾燥させて焼き、作ります。詳しい作り方は、藻塩の会をご覧ください。