原文
熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜
作者
よみ
熟田津(にきたつ)に、船(ふな)乗りせむと、月(つき)待てば、潮(しほ)もかなひぬ、今は漕(こ)ぎ出(い)でな
意味
熟田津(にきたつ)で、船を出そうと月を待っていると、いよいよ潮(しお)の流れも良くなってきた。さあ、いまこそ船出するのです。
この歌は九州へ向かう途中、斉明7年(西暦661年)1月、熟田津(にきたつ:今の愛媛県松山市)に滞在し、次の航海のタイミングをはかっていたときの歌です。斉明天皇(さいめいてんのう)の歌とも言われています。なお、写真は、熟田津(にきたつ)ではありません。
補足
斉明6年(660)、朝鮮半島の百済(くだら)が、新羅(しらぎ)と唐によって侵略され、日本に支援を求めてきました。日本は、この支援要請を受けて軍を出立させました。このとき斉明天皇(さいめいてんのう)、中大兄皇子(なかのおおえのみこ)、そして額田王(ぬかたのおおきみ)たちもいっしょでした。
この歌の題詞には「明日香川原宮(あすかのかはらのみや)に御宇(あめのしたをさめたまふ)天皇の代 [天豊財重日足姫天皇(あめのとよたからいかしひたらしひめのみこと:皇極天皇のこと)譲位の後、後岡本宮(のちのおかもとのみや)に即位] 額田王(ぬかたのおおきみ)の歌 [未(いま)だ詳(つまび)らかならず]」とあります。
この歌の左注には「右、山上憶良大夫(やまのうへのおくらまえつきみ)の類聚歌林(るいじゅうかりん)に曰(いは)く 『飛鳥岡本宮(あすかおかもとのみや)に御宇(あめのしたをさめたまふ)天皇の元年己丑(きちう)九年丁酉(ていいう)十二月己巳(きし)朔(さく:ついたち)壬午(じんご)、天皇大后伊豫湯宮(いよのゆのみや)に幸(いでま)す 後岡本宮(のちのおかもとのみや)馭宇(あめのしたおさめたまふ)天皇七年辛酉(じんいん)春正月丁酉朔壬寅(じんいん)御船、西に征(ゆ)き 始めて海路に就く 庚戌(かうしゅつ) 御船、伊豫(いよ)の熟田津(にきたつ)の石湯(いわゆ)の行宮(かりみや)に泊(は)つ 天皇昔日の猶(なほ)し存(のこ)れる物を御覧になり、 その時忽(たちまち)に感愛(めで)の情を起こされた このゆえに歌をおつくりになり哀傷(かなし)びたまふ』 即と此の歌は天皇が御つくりになったものです 但し、額田王の歌は別に四首有り」とあります。