長屋王(ながやおう)
長屋王(ながやおう)は高市皇子(たけちのみこ)の長男です。養老4年(西暦720年)に藤原不比等が亡くなってからは彼に並ぶものがいなくなり、正二位左大臣にまでなりましたが、神亀6年(西暦729年)年2月に謀反の密告により追及され、妻子とともに自殺に追いやられました。
その後、天平6年(西暦735)に天然痘が大流行し、長屋王亡き後に権勢をふるっていた藤原不比等の4人の子供たち、房前(ふささき)・麻呂(まろ)・武智麻呂(むちまろ)・宇合(うまかい)が次々に病死しました。人々はこれを「長屋王」のたたりとして怖れたそうです。
続日本紀(しょくにほんぎ)の巻第13の天平10年(西暦738年)の個所には次のような記事が載っています。
- 長屋王に仕えていた大伴子虫(おおとものこむし)が、囲碁をしていた相手の中臣宮処東人(なかおみのみやこあずまひと)を斬殺した。長屋王事件のことに話がいったときのことだった。
- 東人(あずまひと)は、かつて長屋王を誣告(ぶこく=嘘の申し立て)した人物であった。
やはり長屋王は無実だったのでしょう。大伴子虫が特に罪に問われている記事がありません。
・続日本紀には、生駒に葬られたとされています。現在、平群駅から徒歩数分のところに奥様の吉備内親王(きびのひめみこ)と距離を置かず、長屋王のお墓があります。
長屋王(ながやおう)が詠んだ歌
・万葉集には五首の歌が残っています。また、懐風藻(かいふうそう)には、五言詩三首が載っています。
0075: 宇治間山朝風寒し旅にして衣貸すべき妹もあらなくに
0268: 我が背子が古家の里の明日香には千鳥鳴くなり妻待ちかねて
0300: 佐保過ぎて奈良の手向けに置く幣は妹を目離れず相見しめとぞ
0301: 岩が根のこごしき山を越えかねて音には泣くとも色に出でめやも