持統天皇(じとうてんのう) Empress Jito
万葉集と百人一首の、「春過ぎて夏来るらし白妙の.......」の歌で有名ですね。持統天皇(じとうてんのう)という名前は、後からつけられた名前で、もとは「う野讃良皇女(うののさららのひめみこ)」と呼ばれていました。「う野(うの)」も「讃良(さらら)」も河内(かわち:今の大阪府の東半分あたり)の馬(うま)の飼育が盛んだったところと考えられ、う野讃良皇女もこの地と何らかの関係があったのではとも考えられています。
- It is famous for the poem of "Haru sugite natsu kitarurashi...." of Manyoshu and Hyakunin Isshu(he Hundred Poems by One Hundred Poets). The name of the Empress Jito was a name given later, and was originally called "Uno-no-sarara-no-himemiko"(himemiko means princess). Both "Uno" and "Sarara" are part of Kawachi(now in the east half of Osaka Prefecture), and it is thought that the rearing of horses was popular there. And it is believed that "Uno-no-sarara-no-himemiko" had something to do with this place.
[生没] 大化元年(西暦645) ~ 大宝2年(西暦702)
[家族] 父 : 天智天皇(てんじてんのう)、子 : 草壁皇子(くさかべのみこ)
母 : 遠智娘(おちのいらつめ)
[略歴]
- 大化元年(645): 誕生。
- 斉明3年(657)、13歳で大海人皇子(おおあまのみこ)に嫁ぐ。
- 天智10年(671)、大海人皇子(おおあまのみこ)とともに吉野に逃れる。
- 天武元年(672)、大海人皇子(おおあまのみこ)とともに壬申の乱に参加。
- 天武2年(673)、大海人皇子(おおあまのみこ)が天皇(天武天皇)に即位するのにともなって、皇后になる。
- 朱鳥(あけみとり)元年(686)、天武天皇(てんむてんのう)が亡くなったため、即位せずに政治を執ることになる。←これを称制(しょうせい)といいます。
大津皇子(おおつのみこ)を謀反の疑いで捕らえ、自害させる。 - 持統4年(690)、即位(持統天皇)する。
- 持統8年(694)、藤原宮に移る。
持統天皇は大宝3年(703)に火葬され、天武天皇の陵に合葬されました。写真は、奈良県高市郡明日香村にある天武・持統天皇陵(檜隅大内陵:ひのくまのおおうちのみささぎ)です。
持統天皇(じとうてんのう)が詠んだ歌
0028: 春過ぎて夏来るらし白妙の衣干したり天の香具山
0159: やすみしし我が大君の夕されば見したまふらし.......(長歌)
0160: 燃ゆる火も取りて包みて袋には入ると言はずやも智男雲
0161: 北山にたなびく雲の青雲の星離り行き月を離れて
0162: 明日香の清御原の宮に天の下知らしめしし.......(長歌)
0236: いなと言へど強ふる志斐のが強ひ語りこのころ聞かずて我れ恋ひにけり